家具インテリアの名産地、大川市にて無垢を用いた高級家具を作り続けて60年。テレビ台チェスト等を通販中

創業60年。大川家具職人のつくる、一生モノの家具を。

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  • 高品質無垢材使用
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大川家具について

商品シリーズ

国産テレビボード

  • Colinaコリーナ

    サイズオーダー可

    校倉造りのデザインを採用したテレビボード
  • Solidソリド

    ルーバーを採用し、和のテイストを取り入れたモダンなテレビボード
  • Granadaグラナーダ

    サイズオーダー可

    印象的なスリットをデザインし、前板に無垢を使用した上品かつモダンなテレビボード
  • Alegreアレーグリ

    サイズオーダー可

    天然木ツキ板を使用した一点ごとに木の表情が違うテレビボード
  • Asaアーザ

    サイズオーダー可

    自然木を個性が感じられるシンプルで自然感溢れるテレビボード
  • Luaルーア

    天然木突板を使用、最大300cmまでの構成が選択可能なテレビボード
  • Livroリブロ

    天然木ツキ板を使用した一点ごとに木の表情が違うテレビボード
  • Charcoシャルコ

    セール

    ガラスと無垢の組み合わせがスタイリッシュなテレビボード
  • Areiaアレイア

    コンクリート調の扉がアクセントの重厚感漂うテレビボード
  • Parqueパルキ

    セール

    スチール脚を採用し、シンプルなデザインですっきりとした印象のテレビボード
  • Lampejoランページョ

    天然木無垢の木目を贅沢に楽しめるテレビボード

国産壁面収納型テレビボード
(ハイタイプテレビ台)

国産収納付きテレビボード
(ハイタイプテレビ台)

  • Areiaアレイア

    コンクリート調の扉がアクセントの重厚感漂うテレビボード
  • Calmaカルマ

    天然木とホワイトガラスのコントラストが特徴的なテレビボード
  • Fonteフォンチ

    天然木節有ツキ板材を側板・前板に使用した収納BOX付きTVボード

国産サイドボード

  • Colinaコリーナ

    サイズオーダー可

    校倉造りのデザインを採用したサイドボード
  • Alegreアレーグリ

    サイズオーダー可

    天然木ツキ板を使用した一点ごとに木の表情が違うサイドボード
  • Asaアーザ

    サイズオーダー可

    自然木を個性が感じられるシンプルで自然感溢れるサイドボード
  • Livroリブロ

    天然木ツキ板を使用した一点ごとに木の表情が違うサイドボード
  • Areiaアレイア

    コンクリート調の扉がアクセントのサイドボード

国産キャビネット

  • Colinaコリーナ

    校倉造りのデザインを採用したキャビネット
  • Mitoミト

    天然木突板の扉とガラスの扉が選べる、ナチュラルモダンチックなキャビネット
  • Tortaトルタ

    セール

    天然無垢を前面扉に使用したシンプルでレトロチックなキャビネット
  • Solidソリド

    前面に無垢を採用した上質感のあるキャビネット
  • Granadaグラナーダ

    前板に無垢材を使用した上品かつモダンなキャビネット
  • Areiaアレイア

    コンクリート調の扉がアクセントのキャビネット
  • Calmaカルマ

    天然木無垢とホワイトガラスのコントラストが特徴的なキャビネット

国産ショーケース

  • Alegreアレーグリ

    天然木無垢を使用した一点ごとに木の表情が違うショーケース

国産リビングテーブル

  • Colinaコリーナ

    校倉造りのデザインを引出扉に採用したリビングテーブル
  • Forceフォルス

    天然木ツキ板を使用した一点ごとに木の表情が違うリビングテーブル

国産ダイニングボード

  • Alegreアレーグリ

    サイズオーダー可

    天然木ツキ板を使用した一点ごとに木の表情が違うダイニングボード

国産デスク

  • Tortaトルタ

    セール

    天然無垢を前面扉に使用した重厚かつ上質感のあるデスク

国産チェスト

  • Tortaトルタ

    セール

    天然無垢を前面扉に使用したシンプルでレトロチックなチェスト
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大川家具とは?その歴史を解説

大川家具の誕生まで

榎津久米之介像

※榎津久米之介像 出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

日本有数の家具産地として知られ、家具の生産高日本一を誇る福岡県大川市。そこで作られる家具は大川家具として全国的に有名です。そのルーツは室町時代まで遡り、時の室町幕府将軍である足利義春の家臣の弟であった、榎津久米之介が家臣たちに家具を作らせたことが始まりと言われています。そして江戸時代には榎津町と呼ばれており、そこには船大工が多く住んでおり、そしてその高い木工技術が代々受け継がれてきました。

また、日田で産出された木材が筑後川を通して運ばれていた事もあり、良質な木材を手に入れやすい点などから木工が盛んな町として有名になります。ではなぜ技術を持った船大工が榎津町に多く住んでいたのでしょうか?また大川は木工業が盛んな町からどのように日本一の家具生産地になったのでしょうか。

筑後川と船大工

筑後川と船大工

※筑後川

大川家具の歴史、その鍵を握るのが筑後川と有明海です。1700年頃の物流の主な手段は船が利用されていました。有明海には全国各地の物資が運ばれ、それらが筑後川に運ばれて行きました。しかし筑後川の水深は浅いため、有明海まで来た大きな船だと途中までしか運ぶことができません。そこで途中からは積荷を小さい船に移し、上流まで運んでいきました。

その際に積荷の受け渡し場所となっていたのが榎津でした。そのため榎津には船が集中する港となり、その船を修理や製造ができる大工が必要なため、船大工が増えていきました。その名残から大川は木工業が盛んな町として発展していき、家具製作にもその技術を受け継いできたのです。

農業へ生かされた木工技術

打桶を使うイメージ

※打桶を使うイメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

では船大工が集まる港から木工業が盛んな町に、そして家具の生産高が日本一の町にまで発展していったのでしょうか。江戸時代の筑紫平野は九州有数の穀倉地帯でした。
この頃の農業の中心は稲作であり、その米を育てるには大量の水が必要となります。そのため、筑紫平野には水を運ぶために多くの堀がめぐらされていました。その水を汲み上げる作業には打桶と呼ばれる道具を使用していましたが、その作業は大変重労働でした。

水車を使うイメージ

※水車を使うイメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

そこで農家たちは大工たちに、当時大阪の淀川で使用されていた水車の製作を依頼したのです。完成した水車は、それまで使っていた打桶の4倍もの効果を発揮し、そこには元々は船大工として働いていた彼らの高度な木工技術が生かされていました。

そして、江戸時代中期になるとこれまでの造船と水車などの農具の生産で木工の町として栄えました。しかし家具の生産はまだまだ少なく、依頼があれば製作するという程度でした。その理由は江戸時代の身分制度の問題があり、当時はまだ個人が自由に好きなものを好きなだけ買う事が許されていなかったからです。

家具づくりのはじまり

ではいつ頃から榎津の大工たちは家具を製作するようになっていったのでしょうか。
それは19世紀ごろ文化から天保にかけてと言われており、その頃になると柳川藩内や佐賀藩内で榎津指物が売られていたと記されています。田ノ上嘉作という榎津指物を有名な職人が活躍したのもこの時代でした。
そして、明治に時代が変わると廃藩置県により、久留米藩に属していた榎津は、柳川藩、三池藩と統合され三潴県となりました。この頃には榎津の木工業は販路が長崎から熊本あたりまで広がっており、家具類の輸入も関西などから盛んに行われていました。

榎津箪笥の誕生

明治に入り10年余りが経った頃、ついに榎津箪笥と呼ばれる独特のデザインと機能を持った衣装箪笥が生産されはじめました。かなり大きめな作りをしており、使われる材質は杉・桐・欅などで、素木(色などが塗られていない木)透漆(透明度が高い漆)黒塗りなどで仕上げられており、金具には鉄・銅・真鍮(銅と亜鉛の合金)などを使っていました。

また、薄いタガネを用いて細かな透彫りを施す手法も大川独特のものでした。
当時の箪笥が一つ完成するまでには、

  1. 木挽による製造
  2. 金具製造
  3. 塗装技術
  4. 木工職

という4つの高度な技術を持った異なる職人が必要で、その4つの技術の粋を集めたものが「榎津箪笥」と呼ばれました。

大川町の誕生

そして明治22年町村合併により大川町がついに誕生します。この頃になると明治政府は日本の近代化に力を入れるようになり、その一環として筑後川の改修に取り掛かりました。その指導者として雇われたのがオランダ人技術者のヨハネス・デ・レーケです。

若津港導流堤イメージ

※若津港導流堤イメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

彼は日本の土木事業に大きな影響を与え、オランダの技術を元に日本に合わせた事業を行い、今でも治水の機能を果たしているものがたくさんあります。若津港導流堤もその一つで、現在でも若航路を確保する港湾施設として活躍しています。そして若津港は、外国の大型船も来航する港として発展していきます。港の繁栄と町の拡大と共に木工関係者が町の25%を占めるようになり、大川は家具の町として知られるようになりました。さらに大川町にも家具店が誕生し、家具の取引はさらに盛んになっていきました。

若津港が、九州鉄道の線路移行と長崎本線の開通で港湾機能が低下し、斜陽化していった明治43年にこれまで榎津指物と呼ばれてきたものが、大川指物同業組合の結成に伴い大川指物と呼び名が変わりました。この時に木工技術を高める目的として工業講習所を設立し、桐箪笥の産地として有名な埼玉県の川越から指導者を呼び技術の向上に努めました。

その結果、大川指物を製造する大工たちの技術は瞬く間に向上し、箪笥に使われる金具や塗りはもちろん、絵画風の螺鈿(らでん)(貝殻の光沢を持った部分を木地などの切り出し彫刻された表面にはめ込む手法)を取り入れるなどデザイン性も格段にアップしました。そして大川指物は、長崎本線の開通や三池港の開港などに伴い大量の輸送が可能になり、販路も西九州一帯や関西方面へと拡大することができました。

筑後川の筏流し

皆さん、「筏(いかだ)流し」という言葉をご存知でしょうか。

筏流しイメージ

※筏流しイメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

家具や木工製品の材料となる木材は、日田という筑後川の上流にある地方から山を伐採し大川まで運ばれていました。運搬方法として使われたのが筏流しでした。この筏流しが使われたのはなんど江戸時代の前期頃からで、夜明けダムの工事が開始される昭和27年まで利用されていました。

家具つくりに機械を導入

材料となる木材と、運搬の基盤となる港も近かった事で木工業と共に大川の町で家具作りが活発になりました。そして一番初めの製材所として誕生したのが「山口製材所」です。そして木工業で初めて機械の導入をしたのもこの製材所でした。

それまでは木材を切るときには木挽と呼ばれる職人たちが大きなノコギリを用いて木材を切り分けていましたが、電動と蒸気力で動く丸鋸を導入し、材料の生産力が飛躍的に上がりました。これまで機械化の導入は全て手作業で作られてきた家具つくりに大きな影響を後々に与えることになります。

榎津長町の松本箪笥店に設置された木工機械

※榎津長町の松本箪笥店に設置された木工機械
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり
2015ガイドブック」

木挽き職人による作業イメージ

※木挽き職人による作業イメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

家具つくりにおいてはじめて機械化を導入したのは、榎津町で問屋を営んでいた松本由太郎でした。大正11年に工場を完成させた際に、「角のみ盤、カッター盤、丸鋸盤、自動送りカンナ、帯鋸」といった機械であり、当時の見積りに書かれている金額は中古の英国製だったもので、国産の新品の3倍の値段がしました。しかし、当時の木工所に機械化は広がりませんでした。
その理由としては、当時の家具製造は、

  1. 木挽による製造
  2. 白木製造(塗装していない家具を製造)
  3. 塗装
  4. 金具製造

これらの4つの手作業に分けられており、各職人たちが別々の工場で作業をしていたからです。

世界恐慌と大川家具

世界恐慌と大川家具

そもそもなぜ世界的な大恐慌が起きてしまったのでしょうか。事の発端となったのはアメリカです。当時アメリカは、第一次世界大戦後の影響で好景気を迎えていました。なぜかというと、戦争の中心だったヨーロッパは疲弊しており、ヨーロッパで作られていたものをアメリカで作るようになり、その余剰を輸出することで一躍世界経済の中心に躍り出ました。そして好景気のアメリカ企業の株に手を出す人も世界中で増えていきました。
しかし、アメリカの過剰な生産力による売れ残りとヨーロッパ経済の持ち直しなどもあり、徐々に生産物の売り上げは下がっていきました。そうすると、売れない商品を作る会社の株は持っていても意味がありませんので、株の売り注文が多くなります。

そして、1929年10月24日後に暗い木曜日と言われるこの日、株は大暴落してしまいます。国民は銀行から預金を引き出し、銀行は倒産。銀行から融資を受けていた企業も倒産。企業から仕事を受けていた工場も倒産と負の連鎖が広がっていきました。この日に自殺者が多数出ており、失業率は25%とまで言われました。

そして、その影響は日本にまで及びます。世界恐慌から各国が身内の国以外を貿易から締め出すブロック経済という政策をとっていたため、生糸など、アメリカへの輸出に頼っていた日本は、植民地も少なく、資源も乏しいためかなりの打撃を受けました。もちろん、その打撃は大川にも影響を与え、生産高は約半分ほどまで下がってしまいました。しかし高い技術力を持っていた大川の大工たちは、農村の水車を製作や、当時行われていた国鉄佐賀線の工事に参加するなどして不況を乗り切りました。

第二次世界大戦の勃発

佐賀線の開通に伴い、筑後大川駅ができると日本通運株式会社が進出し、家具生産はさらに活発になっていきました。しかし昭和12年に日中戦争が起き、昭和16年には太平洋戦争が始まってしまい、状況は変化してしまいます。戦争目的のため、あらゆる品が国に管理されることになり、家具の材料である木材も自由に手に入らなくなりました。

また、若い職人たちには赤紙が届き、戦地へと出兵していきました。木工所も軍需品を製造する工場へと変わってしまったのです。

戦後の木工事業

昭和20年8月15日太平洋戦争は、日本の敗戦により幕を閉じます。終戦はしたものの、日本の主要都市の多くは空襲を受け壊滅状態であり、復興のためには家や家具が必要でした。

そのような戦後の需要が高まったため、大川の木工業はかなり活発になりました。小規模な木工所が数多くでき、昭和24年には国から重要木工集団地に指定され、第一回木工祭が開催されました。

第一回木工祭イメージ

※第一回木工祭イメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

機械の本格導入

先述したように、家具生産への機械化は昭和20年以前まではあまり進んでいませんでしたが、戦後の需要増大により機械を導入する工場が増えてきました。それにより、それまで完成には箪笥で3~5日ほどかかっていたものが、機械を使用することにより、1~3日に短縮することができました。
それに伴い変化していったのが家具職人の育て方です。それまでは親方に弟子入りをし、5年ほどの歳月をかけて修行し一人前になっていきましたが、機械化の導入後は、工場で働きながら仕事を覚える制度に移行していく見習い制度に変化しました。

機械の本格導入

1.角のみ 2.自動鉋 3.手押し鉋 4.昇降盤
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

大川家具ついに全国へ

戦後の需要の高まりや、機械化により急速に成長した大川家具ですが、販売エリアはまだまだ西日本エリアにとどまっていまいした。それが昭和30年頃一気にその名を全国に知らしめます。

きっかけとなったのは、工芸デザイナー河内諒の指導によって昭和27年に生み出された引手なし箪笥です。都会的で洗礼されたデザインは、昭和30年に大阪の西日本物産展で最高賞を受賞し、さらに東急百貨店で開催された第一回全国優良家具展でも高く評価されました。

引手なし箪笥

引手なし箪笥
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

その結果、全国から注文が相次ぐようになり、大川家具は「大川調」と呼ばれるようになりました。そして高度経済成長を迎えた昭和35年頃から、東京、大阪などの大都市でも大川家具が販売され、大川は家具の町として有名になりました。

工芸デザイナー 河内諒

河内諒氏

河内諒氏
出典元:「ふるさと再発見!
大川木工まつり2015ガイド
ブック」

大川家具の全国躍進に大きな影響を与えた河内諒とは一体どのような人物だったのでしょうか。
河内氏は当時熊本産業試験場長として働いていたのですが、昭和26年から大川に定住しました。そして、デザイン・塗装など技術の助言を行い、デザインをシンプルかつ機能性の向上に励みました。そうして生み出されたのが「引手なし箪笥」であり、大川家具の代表作ともなりました。

戦後の大川家具が地場産業として発展し、昔ながらの箱ものにとらわれない近代的な家具への生まれ変わるきっかけとなりました。

現代の技術を駆使して大量生産へ

全国から注文が来るようになった大川家具は、それに対応する大量生産の技術が必要になりました。それを可能にしたのがフラッシュ構造とダボ工法です。

フラッシュ構造とは、パネルのサイズに組んだ芯材の両面を化粧合板で張り合わせ、圧力をかけて、反りにくく強度のあるパネルにします。ダボ工法とは、板と板の組み合わせるための技法であり、両方に穴を開け、その中にダボと言われる木製の棒を指して接着剤でくっつけます。この二つの技術を取り入れることで、大川では早く多くの家具を生産できるようになりました。

このように常に時代と共に変化を遂げてきた大川家具は、その後もベビーブームによる新築ラッシュで婚礼家具として人気が高まり、昭和54年には生産高1千億円を超える日本一の家具の町へとなりました。

大川家具の発祥

大川家具の発祥

日本有数の家具産地として知られ、家具の生産高日本一を誇る福岡県大川市。そこで作られる家具は大川家具として全国的に有名です。そのルーツは室町時代まで遡り、時の室町幕府将軍である足利義春の家臣の弟であった、榎津久米之介が家臣たちに家具を作らせたことが始まりと言われています。そして江戸時代には榎津町と呼ばれており、そこには船大工が多く住んでおり、そしてその高い木工技術が代々受け継がれてきました。

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大川家具の発展

大川家具の発展

明治に入り10年余りが経った頃、ついに榎津箪笥と呼ばれる独特のデザインと機能を持った衣装箪笥が生産されはじめました。かなり大きめな作りをしており、使われる材質は杉・桐・欅などで、素木(色などが塗られていない木)透漆(透明度が高い漆)黒塗りなどで仕上げられており、金具には鉄・銅・真鍮(銅と亜鉛の合金)などを使っていました。

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現在の大川家具

現在の大川家具

そもそもなぜ世界的な大恐慌が起きてしまったのでしょうか。事の発端となったのはアメリカです。当時アメリカは、第一次世界大戦後の影響で好景気を迎えていました。なぜかというと、戦争の中心だったヨーロッパは疲弊しており、ヨーロッパで作られていたものをアメリカで作るようになり、その余剰を輸出することで一躍世界経済の中心に躍り出ました。そして好景気のアメリカ企業の株に手を出す人も世界中で増えていきました。

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全国の家具産地

全国の家具産地

これらが日本で有名な家具産地とされています。それぞれがどのようなルーツを持ち、どのような家具を作っているのかをご紹介していきます。

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