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大川家具の発祥

大川家具の誕生まで

榎津久米之介像

※榎津久米之介像 出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

日本有数の家具産地として知られ、家具の生産高日本一を誇る福岡県大川市。そこで作られる家具は大川家具として全国的に有名です。そのルーツは室町時代まで遡り、時の室町幕府将軍である足利義春の家臣の弟であった、榎津久米之介が家臣たちに家具を作らせたことが始まりと言われています。そして江戸時代には榎津町と呼ばれており、そこには船大工が多く住んでおり、そしてその高い木工技術が代々受け継がれてきました。

また、日田で産出された木材が筑後川を通して運ばれていた事もあり、良質な木材を手に入れやすい点などから木工が盛んな町として有名になります。ではなぜ技術を持った船大工が榎津町に多く住んでいたのでしょうか?また大川は木工業が盛んな町からどのように日本一の家具生産地になったのでしょうか。

筑後川と船大工

筑後川と船大工

※筑後川

大川家具の歴史、その鍵を握るのが筑後川と有明海です。1700年頃の物流の主な手段は船が利用されていました。有明海には全国各地の物資が運ばれ、それらが筑後川に運ばれて行きました。しかし筑後川の水深は浅いため、有明海まで来た大きな船だと途中までしか運ぶことができません。そこで途中からは積荷を小さい船に移し、上流まで運んでいきました。

その際に積荷の受け渡し場所となっていたのが榎津でした。そのため榎津には船が集中する港となり、その船を修理や製造ができる大工が必要なため、船大工が増えていきました。その名残から大川は木工業が盛んな町として発展していき、家具製作にもその技術を受け継いできたのです。

農業へ生かされた木工技術

打桶を使うイメージ

※打桶を使うイメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

では船大工が集まる港から木工業が盛んな町に、そして家具の生産高が日本一の町にまで発展していったのでしょうか。江戸時代の筑紫平野は九州有数の穀倉地帯でした。
この頃の農業の中心は稲作であり、その米を育てるには大量の水が必要となります。そのため、筑紫平野には水を運ぶために多くの堀がめぐらされていました。その水を汲み上げる作業には打桶と呼ばれる道具を使用していましたが、その作業は大変重労働でした。

水車を使うイメージ

※水車を使うイメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

そこで農家たちは大工たちに、当時大阪の淀川で使用されていた水車の製作を依頼したのです。完成した水車は、それまで使っていた打桶の4倍もの効果を発揮し、そこには元々は船大工として働いていた彼らの高度な木工技術が生かされていました。

そして、江戸時代中期になるとこれまでの造船と水車などの農具の生産で木工の町として栄えました。しかし家具の生産はまだまだ少なく、依頼があれば製作するという程度でした。その理由は江戸時代の身分制度の問題があり、当時はまだ個人が自由に好きなものを好きなだけ買う事が許されていなかったからです。

家具づくりのはじまり

ではいつ頃から榎津の大工たちは家具を製作するようになっていったのでしょうか。
それは19世紀ごろ文化から天保にかけてと言われており、その頃になると柳川藩内や佐賀藩内で榎津指物が売られていたと記されています。田ノ上嘉作という榎津指物を有名な職人が活躍したのもこの時代でした。
そして、明治に時代が変わると廃藩置県により、久留米藩に属していた榎津は、柳川藩、三池藩と統合され三潴県となりました。この頃には榎津の木工業は販路が長崎から熊本あたりまで広がっており、家具類の輸入も関西などから盛んに行われていました。

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