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現代の大川家具

世界恐慌と大川家具

世界恐慌と大川家具

そもそもなぜ世界的な大恐慌が起きてしまったのでしょうか。事の発端となったのはアメリカです。当時アメリカは、第一次世界大戦後の影響で好景気を迎えていました。なぜかというと、戦争の中心だったヨーロッパは疲弊しており、ヨーロッパで作られていたものをアメリカで作るようになり、その余剰を輸出することで一躍世界経済の中心に躍り出ました。そして好景気のアメリカ企業の株に手を出す人も世界中で増えていきました。
しかし、アメリカの過剰な生産力による売れ残りとヨーロッパ経済の持ち直しなどもあり、徐々に生産物の売り上げは下がっていきました。そうすると、売れない商品を作る会社の株は持っていても意味がありませんので、株の売り注文が多くなります。

そして、1929年10月24日後に暗い木曜日と言われるこの日、株は大暴落してしまいます。国民は銀行から預金を引き出し、銀行は倒産。銀行から融資を受けていた企業も倒産。企業から仕事を受けていた工場も倒産と負の連鎖が広がっていきました。この日に自殺者が多数出ており、失業率は25%とまで言われました。

そして、その影響は日本にまで及びます。世界恐慌から各国が身内の国以外を貿易から締め出すブロック経済という政策をとっていたため、生糸など、アメリカへの輸出に頼っていた日本は、植民地も少なく、資源も乏しいためかなりの打撃を受けました。もちろん、その打撃は大川にも影響を与え、生産高は約半分ほどまで下がってしまいました。しかし高い技術力を持っていた大川の大工たちは、農村の水車を製作や、当時行われていた国鉄佐賀線の工事に参加するなどして不況を乗り切りました。

第二次世界大戦の勃発

佐賀線の開通に伴い、筑後大川駅ができると日本通運株式会社が進出し、家具生産はさらに活発になっていきました。しかし昭和12年に日中戦争が起き、昭和16年には太平洋戦争が始まってしまい、状況は変化してしまいます。戦争目的のため、あらゆる品が国に管理されることになり、家具の材料である木材も自由に手に入らなくなりました。

また、若い職人たちには赤紙が届き、戦地へと出兵していきました。木工所も軍需品を製造する工場へと変わってしまったのです。

戦後の木工事業

昭和20年8月15日太平洋戦争は、日本の敗戦により幕を閉じます。終戦はしたものの、日本の主要都市の多くは空襲を受け壊滅状態であり、復興のためには家や家具が必要でした。

そのような戦後の需要が高まったため、大川の木工業はかなり活発になりました。小規模な木工所が数多くでき、昭和24年には国から重要木工集団地に指定され、第一回木工祭が開催されました。

第一回木工祭イメージ

※第一回木工祭イメージ
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

機械の本格導入

先述したように、家具生産への機械化は昭和20年以前まではあまり進んでいませんでしたが、戦後の需要増大により機械を導入する工場が増えてきました。それにより、それまで完成には箪笥で3~5日ほどかかっていたものが、機械を使用することにより、1~3日に短縮することができました。
それに伴い変化していったのが家具職人の育て方です。それまでは親方に弟子入りをし、5年ほどの歳月をかけて修行し一人前になっていきましたが、機械化の導入後は、工場で働きながら仕事を覚える制度に移行していく見習い制度に変化しました。

機械の本格導入

1.角のみ 2.自動鉋 3.手押し鉋 4.昇降盤
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

大川家具ついに全国へ

戦後の需要の高まりや、機械化により急速に成長した大川家具ですが、販売エリアはまだまだ西日本エリアにとどまっていまいした。それが昭和30年頃一気にその名を全国に知らしめます。

きっかけとなったのは、工芸デザイナー河内諒の指導によって昭和27年に生み出された引手なし箪笥です。都会的で洗礼されたデザインは、昭和30年に大阪の西日本物産展で最高賞を受賞し、さらに東急百貨店で開催された第一回全国優良家具展でも高く評価されました。

引手なし箪笥

引手なし箪笥
出典元:「ふるさと再発見!大川木工まつり2015ガイドブック」

その結果、全国から注文が相次ぐようになり、大川家具は「大川調」と呼ばれるようになりました。そして高度経済成長を迎えた昭和35年頃から、東京、大阪などの大都市でも大川家具が販売され、大川は家具の町として有名になりました。

工芸デザイナー 河内諒

河内諒氏

河内諒氏
出典元:「ふるさと再発見!
大川木工まつり2015ガイド
ブック」

大川家具の全国躍進に大きな影響を与えた河内諒とは一体どのような人物だったのでしょうか。
河内氏は当時熊本産業試験場長として働いていたのですが、昭和26年から大川に定住しました。そして、デザイン・塗装など技術の助言を行い、デザインをシンプルかつ機能性の向上に励みました。そうして生み出されたのが「引手なし箪笥」であり、大川家具の代表作ともなりました。

戦後の大川家具が地場産業として発展し、昔ながらの箱ものにとらわれない近代的な家具への生まれ変わるきっかけとなりました。

現代の技術を駆使して大量生産へ

全国から注文が来るようになった大川家具は、それに対応する大量生産の技術が必要になりました。それを可能にしたのがフラッシュ構造とダボ工法です。

フラッシュ構造とは、パネルのサイズに組んだ芯材の両面を化粧合板で張り合わせ、圧力をかけて、反りにくく強度のあるパネルにします。ダボ工法とは、板と板の組み合わせるための技法であり、両方に穴を開け、その中にダボと言われる木製の棒を指して接着剤でくっつけます。この二つの技術を取り入れることで、大川では早く多くの家具を生産できるようになりました。

このように常に時代と共に変化を遂げてきた大川家具は、その後もベビーブームによる新築ラッシュで婚礼家具として人気が高まり、昭和54年には生産高1千億円を超える日本一の家具の町へとなりました。

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